ゲイムマンのダイスステーション
日本縦断ゲーセン紀行
239.アジサイと刀剣とモテない男子
〜京都編(5)〜
スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥1,410)
2022年6月10日。
東京駅午後7時ちょうど発の、のぞみ255号に乗る。
金曜の夕方で混んでいたのと、久々の旅で準備段階から疲れていたので、グリーン車。
前回(去年の12月)、絵馬に名前を書き忘れたのがまずかったのか、
それともスーパーの客引きの呪いがよっぽど強かったのか。
あれだけの寺社を巡ったのに、運気はちっとも良くならず、
むしろ八方塞がりに陥っている。
香川県を舞台としたゲームを制作中なので、
前回は香川に縁のある人をまつった寺社を回り、完成祈願とヒット祈願をした。
しかし、テキストとグラフィックが9割5分くらい完成したところで行き詰まる。
先に、もう少し短めのゲームを手早く1本作って、
そのプログラムを流用しようとも考えたが、手早くどころかそっちも行き詰まる。
ゲーム制作以外では、1月にブログのアクセス数が3,000を超えたり、
ツイッターで1回、リツイートが1万を超えたりしたので期待もしたが、
それ以降は特に何らかの展開があったわけでもなく。
(※一応、ツイートの方は、ネットニュースに若干取り上げられたが)
「政治家でマリオが一番うまいと豪語した故海部元首相 ファミコンブームへの理解に再び脚光 「教育的効果は大きい」と答弁していた」(まいどなニュース様)
むしろこれだけバズっても、その後に何もナシなんかいと思うと、
かえって先が見えなくなった。
アクセスが増えた理由がわからないので、その後、二度とこんな現象を起こせないし。
運が悪いのは、自分だけに留まらない。自分なんかまだましな方だ。
前回から懸念してたコロナウイルスのオミクロン株が、
懸念してた以上のスピードで世界中に蔓延するし。
(重症化しにくいのがせめてもの救いだったが)
さらに、ロシアがウクライナに戦争を仕掛けるという、
今どき信じられないような事態が起こるし。
前回私が巡った神社は本来、亡くなった人を弔うために建てられた。
そういう神社に願い事をすること自体が、筋違いなのかなあとも思う。
ただし、例えば北野天満宮などは、江戸時代から学問の神様として信仰されているので、
御利益を期待するのも、間違いではないと思うのだが。
今回は、どんなルートを何日間で回るか、具体的には決めていない。
そもそもゴールデンウィーク明け早々には、旅立っているはずだったのに、
細かい仕事が毎日ぽつぽつと入って、事務所を離れられなかった。
一応、新しく考えたゲームで、小野小町と深草少将を取り上げようと考えており、
2人のゆかりの場所には行きたいところ。
もっとも、このゲームを本当に作るかどうかわからないので、
是が非でも行きたいというわけでもない。
京都('22.6.10)
午後9時15分、京都駅着。ホテルにチェックイン。とりあえず3泊の予定。
コンビニでそばを買って、ホテルで食べた。
翌日の6月11日。8時半起床。
前夜、旅のルートを検討してたら、寝るのが4時半になってしまった。
ただしベッドが良かったためか、よく寝られたような気がする。
コンビニで買っていた、「サンミーみたいなメロンパン」を食べる。
クリーム、ビスケット生地、チョコの3つの味で「サンミー」らしい。
関西のソウルパンらしい。
京都駅は、でかすぎて、
かなり遠くから撮っても全景が入らない。
結局、小野小町と深草少将ゆかりの場所に
行くことにした。
JR奈良線のホームへ向かったが、その途中、
琵琶湖線ホームから来たお客さんの混雑に巻き込まれ、
10時19分発奈良行きの電車を逃してしまう。
次の、10時33分発みやこ路快速・奈良行きに乗ろうとしたが、
この電車は目的の駅に止まらない。
ピンポンパンポンピンポンパンポンピンポンパンポロンというメロディーとともに、
その次の電車が入線した。
10時36分発、普通・城陽行き。これに乗る。
221系4両編成。
クロスシートの座席は、ほぼ埋まっていた。
出発直前になって、さらに乗客は増え、
そこそこ混んできた。
発車。京都の市街地を走る。新幹線の高架が右から左へ。
鴨川を渡ると東福寺駅。左手に京阪のホームが見える。
東福寺を出ると、瓦屋根の住宅が増える。
京阪の線路はいつの間にか、左から右へ移っていた。
稲荷駅。伏見稲荷大社の最寄り駅だが、普通列車しか止まらない。
乗客の半分くらいがここで降りた。
私も伏見稲荷大社へ行きたいけど、土曜日だから混んでそうだし、
とりあえず小野小町関連の場所を優先させたかったので、今日は通過する。
引き続き住宅街を走る。
どこだかわからなかったが、左手の線路沿いに、12人の天皇をまつる
深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ・深草十二帝陵)があるらしい。
名神高速道路をアンダークロス。
10時45分、JR藤森駅で降りた。
(ゲーム路銀 ¥1,410-¥190=¥1,220)
〜東福寺〜稲荷〜
JR藤森(ジェイアールふじのもり)
この駅はJRで初めて、
開業時から駅名に「JR」がついた駅らしい。
(当駅開業前からJR難波駅があったが、
JR難波駅はもともと「湊町」駅だった)
駅前に建つかわいらしい銅像。
下り坂を西へ歩く。
北側は京都教育大学のキャンパスらしいが、
木々と石垣に覆われ、入口の門しか見えない。
さらに進むと右側(北側)に、
「勝運 馬の社 藤森神社」と大書された看板が見えてきた。
「菖蒲の節句発祥の地」と刻まれた社号標も。
参拝客はそこそこ多い。境内にあじさい苑があり、ちょうど今が見頃らしい。
小野小町とは関係なさそうだが、せっかく通り道にあるし、勝ち運は欲しいし、
アジサイも見たいし、立ち寄ることにした。
石の鳥居をくぐる。
かつてこの鳥居には、
後水尾天皇宸筆の額があったが、
参勤交代でここを通る大名が
駕籠から降りて拝礼するのを見た近藤勇が、
悠長すぎて時代に合わないと考え、
額を外してしまったと伝わる。
事前に地図で見たときは細く見えた参道が、意外に広い。拝殿まで見通せる。
児童公園の片隅に、伏見奉行・小堀政方の悪政を幕府に直訴して命を落とした
伏見義民の1人で、深草出身の焼塩屋権兵衛の碑が建つ。
「蒙古塚」の周りを、アジサイが取り囲んでいた。ここが第一あじさい苑か。
コスプレイヤーの姿がちらほら見られる。
かつて拝殿だったという絵馬舎には、
古い絵馬に交じって、
JRAの競走馬が描かれた絵馬も、
数多く掲げられている。
この写真に写っているのは、トウカイテイオーとナリタブライアン。
ほかにも、フジヤマケンザン、ナリタトップロード、フサイチコンコルド、
アドマイヤベガ、ファレノプシスなど。
藤森神社は、創建したとされる神功皇后をはじめ、
武神や、戦で活躍した人物が多くまつられていることから、
「勝運」の御利益があるとされる。
また、毎年5月5日に駈馬神事(かけうましんじ)が行なわれるなど、
馬との関わりが深い。
淀の京都競馬場まで、京阪本線の電車1本で行けるという地理的条件もあり、
(京都競馬場は現在、改造工事のため、2年半に及ぶ長期閉鎖中だが)
藤森神社は競馬の神様ともなっているらしい。
(「競馬の神様」と書くと、大川慶次郎さんみたいだが)
藤森神社
宝物殿は、入館無料になっていた。
玄関に掲げられた絵馬の中に、
『馬なり1ハロン劇場』の、よしだみほ先生の絵馬がある。
重要文化財の紫絲威大鎧(むらさきいとおどしおおよろい)。
南北朝時代のもので、高貴な武将が用いたものとのこと。
(藤森神社のサイトにもそう記載されている)
しかし社伝では、早良(さわら)親王が蒙古追討のため身に着けたとされているらしい。
早良親王は南北朝よりはるか昔、奈良時代の人で、桓武天皇の皇太弟だったが、
藤原種継の暗殺に関与したとして廃され、絶食して死去した。
(種継は、後に薬子の変を起こした藤原仲成・薬子兄妹の父)
伝説では、蒙古が日本に攻めてきたのは781年(天応元年)で、
早良親王らが討ち取った蒙古の将兵や兵器を納めた場所が、先ほどの蒙古塚だという。
もちろん奈良時代に蒙古という国はなく、
モンゴルという民族の名前が、ようやく中国の史書に登場し始めた頃だ。
藤森神社のサイトに載っている、駈馬神事の由来についての解説文には、
天応元年に戦った相手は、蒙古ではなく、陸奥国だと書かれている。
実際、これより少し後だが、早良親王の部下の大伴家持が、征東将軍に任じられている。
(どのみち、鎧との時代が合わないのだが)
重要文化財の鎧の隣にもう1領、紫絲威大鎧がある。
こちらも立派なものだ。
江戸幕府4代将軍・徳川家綱が奉納したもの。
戊辰戦争の際には、有栖川宮熾仁(たるひと)親王が着用されたそうだ。
そういえば、鳥羽伏見の戦いの戦場も、ここから割と近い。
ほかにも、さまざまな武具が展示されている。弓や銃が多い。
八連発火縄銃といった変わり種も。
日本と世界の馬の郷土玩具も多数展示され、「馬の博物館」と題されている。
5月の藤森祭で行なわれる、駈馬神事の写真。
後ろ向きや逆立ちで馬に乗る、いわゆる曲乗りの見事な技である。
日本紀(日本書紀)の写本。清少納言筆と伝わる。
骨製・石製の矢じりや、刀の鍔(つば)、
笄(こうがい・髪を整える道具で、刀の鞘につけることもあった)、
小柄(こづか・刀の鞘につける、極めて小さな刀)。
そして刀。
鶴丸国永の写しが展示されていた。
本物の鶴丸は、伊達家から明治天皇に献上され、現在は皇室の御物となっている。
なので一般公開されることは極めてまれ。
伊達家が所有する以前、この藤森神社が所有し、祭礼に用いていたらしい。
刀剣女子とおぼしき2人組の女性が、本格的な専門用語を使って、
この刀の美しさを語り合っていた。
私はあまり刀に詳しくないので、おそれいる。
宝物殿の出口近くに、武豊騎手などJRAの騎手の、サイン入り写真が掲げられていた。
最後に、『刀剣乱舞』の鶴丸国永の、
グッズやイラストが多数。
参拝者の方々から奉納されたという。
藤森神社
続いて、第一あじさい苑へ(第一・第二合わせて入場料¥300)。
アジサイをバックに撮影する
コスプレイヤーさん。絵になる。
狭い通路までせり出すように
アジサイの花が咲き誇る。
アジサイの色も種類もさまざま。
まさに今が花盛り。
撮影する人は、人の流れが途切れたタイミングや、
通路でもメインの順路でない所で撮影していたので、
道が狭い割には、まあまあスムーズに歩けた。
そんなに広くないスペースのはずなのに、
視界いっぱいにカラフルな花々が広がる。
華やかな景色をたっぷりと堪能。
私は最近、
この時期に旅行することが少ないので、
アジサイに囲まれるのは新鮮だった。
藤森神社
正午を過ぎた。この神社に来て1時間くらい経ったが、まだ参拝していない。
壁がない特徴的な形の拝殿。
真ん中に通路がある「割拝殿」となっていて、
中を通り抜けて本殿へ行ける
……はずなのだが、
入口が塞がれていて、中には入れなかった。
本殿は重要文化財。
江戸時代の1712年(正徳2年)、
中御門天皇から賜った建物。
もとは宮中の賢所(かしこどころ・
八咫鏡(やたのかがみ)をまつる場所)だった。
現存する最古の賢所だそうだ。
先ほどの拝殿も、このとき御所から賜った。
本殿の前に建つ石柱には、「日本書紀編者 舎人親王御神前」と刻まれている。
舎人(とねり)親王は天武天皇の皇子で、淳仁天皇の父である。
(淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて廃され、淡路に流された。
前回私が参拝した白峯神宮に、崇徳天皇とともにまつられている)
舎人親王は、持統天皇から聖武天皇の五代に仕える。
『日本書紀』を編纂し、720年(養老4年)に完成させた。
藤森神社のパンフレットでは、「日本最初の学者」と記し(菅原道真より170歳年長)、
学問の神様としてまつっている。
もとは現在の伏見稲荷大社の場所に、「藤尾社」としてまつられていたが、
足利義教が伏見稲荷の本殿を稲荷山の山頂から山麓に遷した際、
藤尾社が藤森に遷座し、舎人親王が祭神の一柱になったそうだ。
またこのとき、藤森にあった真幡寸(まはたき)神社が西に遷され、
後に城南宮と同一視されるようになったそうだ。
本殿を囲む形で、さまざまな神殿や建造物が並ぶ。
手水舎の鉢の台石は、宇治浮島の十三重石塔のうち上から5番目の石を、
石川五右衛門が持ってきたものだという言い伝えがある。
(宇治の石塔は江戸時代に倒壊して川底に埋まってしまい、
明治時代に発掘されて再建されたが、5番目の石だけが見つからず、新しく造られた。
だが実はその後、この石が発見され、宇治市の興聖寺に運ばれて現存する)
手水舎と別の所に、御神水の「不二の水」。
そのそばに、鳥居の連なる稲荷社。
神功皇后御旗塚。
いわゆる三韓征伐から凱旋した神功皇后が、
纛旗(とうき・大将の旗)を、
この場所に立ててまつった。
これが藤森神社の起こりとされる。
太い木の切り株に、しめ縄が巻かれている。
この木は「いちのきさん」と呼ばれるイチイガシで、
なぜか腰痛を治す御利益があるといわれている。
新選組の近藤勇も参拝して、腰痛が治ったと伝わる。
金太郎の銅像がかわいらしい。
旗塚と不二の水の近くには、
かわいらしい七福神の像もある。
金太郎像の台座には、「勝運之神 菖蒲の節句発祥の地」と書かれている。
5月5日の端午の節句が、男子の成長を祈願する日となったのは、
毎年5月5日に行なわれる藤森祭で、
早良親王の東征を再現した、武者行列や駈馬神事が披露されたからだという。
そして、重要文化財となっている、
八幡宮社と大将軍社。
ともに1438年(永享10年)、
舎人親王の藤尾社を稲荷山から遷した将軍、
足利義教が造営した。
八幡宮は応神天皇をまつる。
神功皇后の皇子で、
やはり武神として信仰される。
大将軍社の祭神は磐長姫命。
平安京遷都の際、都の四方を守護する
大将軍神社がまつられたが、
その中の南面の大将軍社である。
藤森神社
八幡宮や大将軍社のさらに後ろに、第二あじさい苑があった。
(第一あじさい苑の入場料で入れる)
入口に建つ武者像。
さっき宝物殿で見た、
重要文化財の鎧らしきものを身に着けている。
早良親王か? と思ったけど、親王に限らず、
藤森祭の武者行列に参加する武者を象徴した
「神鎧像」だとか。
本殿の後ろに並ぶ摂社の裏手が、
アジサイで埋め尽くされていた。
第二あじさい苑の花は、
第一より花期が遅いのか、
やや小ぶりの花が多かった。
でも、歴史ある建物と花の組み合わせが良い。
藤森神社が、こんなにいろいろな伝説のある神社だということを、
今まで全く知らなかった。
神功皇后、早良親王から、石川五右衛門、近藤勇まで。
最後に西門へ向かい、
カヤ(榧)の木を見上げる。
特に何か由来が伝わっている木ではないが、
もしかしたら、小野小町と深草少将の伝説に
関係があるかもしれない。
深草少将の伝説については、後で詳しく書くつもりだが、
小野小町に惚れ込んだ深草少将は、小町に言われた通り、
彼女の家の前まで百夜通い続ける。
だが100日目(99日目という説もあり)が酷い悪天候で、
彼は小町の家までたどり着く前に息絶えてしまった。
(大雨で橋ごと流された説と、大雪で凍死した説あり)
深草少将は小野小町の家に入れなかったので、訪れた証として、
家の前にカヤの実を1個ずつ置いていった。
(これもカヤ説とシャクヤク説があるが)
少将の死後、小町が少将を偲んでカヤの実をまいた。
現在、その実が芽を出して育ったと伝わる「小町カヤ」が数本ある。
藤森神社のカヤの木にはそういう伝説はないが、
場所が場所だけに、これも小町榧だとしても不思議ではない。
(そもそも、深草少将が通った小町の家自体が京都じゃなくて、
小町の地元の秋田だったという説や、熊本だった説すらあるのだが)
(そもそも深草少将なる人物自体が、架空の人物と考えてほぼ間違いないらしいのだが)
拝殿の近くまで戻る。毎度こりずに勝運御守をお受けする。
今、私の家には、勝守と、縁結守が、いったい何十個あるんだろう?
藤森神社
小雨がぱらつき始めた。南門に戻り、さらに西を目指そう。
藤森に来た第一の目的は別にあるのだ。
墨染
京阪の墨染駅の前の踏切を渡る。
方向別に入口が分かれる小さな駅。
小さな橋を渡る。下を流れる川は、琵琶湖疏水らしい。
さらに西へ進んで、
墨染寺(ぼくせんじ)に参拝。
日蓮さんの御像が立派。
なぜか足元に狸の置物。
太政大臣を務め、最初の関白となった藤原基経が、891年(寛平3年)に死去し、
深草の貞観寺にまつられた(※墓は宇治の木幡にある)際、
友人の上野岑雄(かみつけ/かんつけのみねお)がその死を悼み、
「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだ。
するとその年、貞観寺の桜は薄墨色に咲いたという。
藤原基経といえば、陽成天皇を退位に追い込んだり、
宇多天皇即位時に「阿衡事件」(阿衡(あこう)という職に任じられるが、
これを単なる名誉職と解釈して怒り、半年間も仕事を放棄した)を起こしたりするなど、
朝廷で絶大な権力を持っていた。
そんな基経にも、その死を悲しんでこのような歌を詠む、親しい友人がいたということに、
人間性が感じられて、ちょっとほっこりする。
貞観寺は平安時代末頃から衰退し、応仁の乱の被害で廃絶したらしい。
桃山時代になって、豊臣秀吉が土地を寄進し、増長院日秀が「墨染桜寺」として再興した。
秀吉の姉で秀次の母の日秀尼が、秀次とその一族の死去後、
日蓮宗に帰依したことも関係しているようだ。
「桜寺」と書かれた扁額がある。
藤原基経、豊臣秀吉、豊臣秀次と、なぜか関白に縁のあるお寺だ。
小さな木の前に、
「四代目 墨染桜」と書かれた立て札。
どうも数年前に代替わりしたばかりらしい。
現在、墨染寺にある桜の木の多くはソメイヨシノ。
とはいえ、狭い境内を埋め尽くすように、桜の枝が広がる。
花の咲く時期はさぞかしきれいだろう。
墨染寺から直接は行けないが、すぐ南隣に欣浄寺(ごんじょうじ)という寺があり、
こここそが、深草少将邸の跡だという。
おそらく架空の人物と思われる少将に、屋敷の跡地があるというのも不思議だ。
ただ、少将の恋に似たような、一途ながらも実らない恋を経験した人は多いだろう。
というか自分もそうだ。リアル深草少将だ。
そんな人々を象徴する存在として、深草少将の話をモチーフにしたゲームを作ろうと思い、
その取材を兼ねて、少将の史跡(?)を訪ねようと思ったのだ。
しかし……。
門が閉まってて入れない。
本堂の拝観が予約制だという情報は得ていたが、
庭園の写真が載っているブログがけっこうあるので、
境内には入れるもんだと思っていた。
小野小町と深草少将の供養塔も、
深草少将姿見の井戸も見えない。
池らしきものがわずかに見えた。
小野小町に門前払いさせられた深草少将に、門前払いさせられる始末。
まあそもそも予約制のお寺なんだから、入れなくて当然ではあるのだが。
良く解釈すれば、深草少将または、彼に似た失恋を経験した古人たちの念が、
私を彼らと同じ目に遭わせないために、ここへ近づけないようにしたのかもしれない。
……今さら遠ざけられたところで、もう遅いんだけど。歳も歳だし。
(※ 後で調べたら、裏からだったら入れたみたいだけど、
どのみち予約してないし、門が閉まってる所に裏から入っていいものかどうかも微妙)
もと来た道を戻って戻って、JR藤森駅まで、とぼとぼと歩く。
最後の上り坂がきつい。
駅に近づいたときに、ポコペンピンポコペンピンと、電車接近メロディーが鳴る。
嫌な予感がする。
JR藤森(ジェイアールふじのもり)
午後1時59分、JR藤森駅着。
案の定、1時59分発の電車があり、それを乗り逃がしていた。
2時15分発の城陽行きを待つ。
墨染の撞木町(しゅもくちょう)には、江戸時代頃、花街があったらしい。
(今は碑しか残っていないらしいので、立ち寄らなかったが)
大石内蔵助が山科に住んでいたとき、ここで遊んでいたとされる。
『東海道中膝栗毛』にも「爰(ここ)はすこしの遊所ありて」と記され、
弥次さん喜多さんが、おしろいで顔を真っ白くした女の、強引な客引きを振り切っている。
悲恋によって命を落とした、深草少将の邸宅があったとされる場所のすぐ近くが、
後に花街となっているのは、皮肉というか何というか。
まあ、後といっても九百年も後なんだけど。
ちなみに、弥次喜多はここから都に向かって北へ歩き、
途中で「藤のもり」という所を通っているのだが、ここに稲荷山と稲荷の社がある。
「現在の伏見稲荷大社の場所でまつっていた舎人親王を藤森に遷座した」という
藤森神社の伝説とあわせて考えると興味深い。
藤森という地名が移動したわけではないようだけど、遷座したという経緯から、
江戸時代には稲荷のあたりを藤森ともよんでいたのか、
それとも十返舎一九が勘違いしたのか。
JR藤森駅から、午後2時15分発の城陽行きで、乗り換え駅の六地蔵を目指す。
221系4両編成。車内が涼しい。
JR藤森から先も、引き続き住宅地。左側が高く、右側が低い。
左に伏見桃山城天守閣が見えるかもしれないと思ったが、見えなかった。
途中の桃山駅で降りて、この天守閣を見に行くプランも頭にあった。
天守閣はもともと、「伏見桃山城キャッスルランド」という
遊園地のシンボルとして建設されたが、
キャッスルランドが閉園し、京都市営の運動公園となった後も残されているらしい。
老朽化して取り壊される可能性もなくはないので、できれば早く見ておきたいが、
今回はもう少し先へ進んでおきたい。それに、ゲーム路銀が心もとない。
桃山駅を出ると、左手に作りかけの線路がある。
奈良線はJR藤森から先、一部区間が単線だが、近いうちに宇治駅まで複線化されるらしい。
(宇治から先は、城陽まで既に複線化済)
右側がさらに低くなり、見通しが良くなった。
山科川を渡る。2時22分、六地蔵駅に到着した。
(ゲーム路銀 ¥1,220-¥190=¥1,030)
〜桃山〜
六地蔵
JRの駅舎を出て、地下鉄の入口に移動。
地下鉄東西線、2時37分発の
太秦天神川行きに乗り換える。
小野小町の旧宅跡とされる場所が、小野駅の近くにある。
でも小野までは行かず、いったん1つ前の醍醐駅へ行く。
醍醐で少し休みたいから。
あと、小野まで行くより40円安いから。
〜石田〜
醍醐(だいご)
2時41分、醍醐駅着。
(ゲーム路銀 ¥1,030-¥220=¥810)
駅ビルのパセオダイゴローに入る。
1階のマクドナルドで休憩。多分ここ来るの3回目。
期間限定割引のビッグマックセット。
食べ終わったら、時刻は午後3時40分。
パセオダイゴローの中から延びる歩道を通り、
醍醐寺を目指そう。
今日じゅうに回り切れないとは思うけど。
醍醐寺は、豊臣秀吉の「醍醐の花見」で知られる桜の名所。
思えば初めてここに来たのはコロナ禍前の2019年12月で、
翌年の4月に醍醐寺でお花見をしたいと思って、ここでひと区切りとしたのだった。
で、それからしばらく旅に出られず、ゲーセン紀行再開は去年の12月。
今年こそ桜の時期に来たかったけど、予定が合わなかったし、
来年予定が合うかどうかもわからないし、
混雑しそうな時に行くのもまだ不安があったので、今行くことにした。
閑静な住宅地の中にある参道。ずっと緩やかな上り坂。
案内板に従って、突き当たりを左、次を右。
パセオダイゴローからゆっくり歩いて13分。
醍醐寺の総門に到着した。
正面と左右のエリアそれぞれに見どころがあるようだ。
時間が遅いので、今日見られるのはどこか1エリアだけだろう。
左側に、国宝の唐門が見えた。
朝廷からの使者を迎える際に使われたそうだ。
黒地に金色で描かれた、
皇室と豊臣家の紋が鮮やか。
こちらの三宝院エリアに行ってみよう。
正面の「伽藍エリア」と、三宝院の庭園の拝観料が込みで¥1,000。
時期などによって金額や、見られるエリアは多少変わるらしい。
三宝院は醍醐寺の塔頭(たっちゅう)だが、
格式の高い門跡寺院であり、
醍醐寺座主の住む本坊的な存在でもある。
現在の三宝院は、豊臣秀吉が1598年(慶長3年)に
「醍醐の花見」を行なうにあたって整備された。
庭園は、秀吉自らが設計している。
(国特別史跡・特別名勝)
雨が降っていることもあり、
静かで穏やかな雰囲気。
一方で、秀吉が設計したと
聞いたからかもしれないが、
石も木もいろんな種類のものが配されていて、
なかなかに派手な印象もある。
表書院は国宝に指定されている。
ほかの建物も、大半が重要文化財。
重要文化財の大玄関から、建物に入ってみる(特別拝観料¥500)。
葵の間、秋草の間、勅使の間。重要文化財のふすま絵を眺めつつ進む。
さらに表書院。建物が国宝、ふすま絵が重文。
どの部屋の絵も、色あせてはいるが立派な障壁画で、
特に表書院のクジャクとソテツが、異国情緒をかもし出す。
ここから眺める庭が良い。
亀と鶴に見立てた2つの島。
手前に並ぶ3つの石は、
賀茂川の流れや淀みを表しているそうだ。
いちばん奥に流れている、
小さな滝の音も良い。
そして対岸に、ひときわ目立つ
“天下人の石”。
この石は藤戸石という。もとは、
治承寿永の乱(源平合戦)の戦場となった、
岡山県倉敷市の藤戸にあった。
それを、足利義満が金閣寺へ移し、足利義政が銀閣寺へ移し、管領の細川高国が譲り受け、
織田信長が細川藤賢の屋敷から、新しく造られた足利義昭の二条御所へ移した。
その後、豊臣秀吉が聚楽第へ移し、そしてこの三宝院庭園を造る際、
既に破却されていた聚楽第からここへ移した。
歴代の権力者のもとを渡り歩いた石。見るだけでも縁起が良さそうだ。
次の部屋は純浄観という(重要文化財)。
秀吉が醍醐の花見の際、醍醐山の中腹の槍山に建てた、花見御殿を移築したといわれる。
ふすま絵は平成に入って、浜田泰介氏が描いた新しいもの。桜と紅葉がきらびやか。
純浄観から庭園を望むと、
橋が池を平行に区切っているように見え、
また面白い景色。
いちばん奥に本堂がある(重要文化財)。
本堂脇の庭は、
苔でひょうたん徳利と杯を表した
「酒づくしの庭」だそうだ。
お堂の外から、快慶作の御本尊・弥勒菩薩にお参り。
人々が救われますように。
純浄観の裏から、奥宸殿へ向かう途中にある、
小さな庭がなんか良い。
奥宸殿(重要文化財)は江戸時代初期の建物。
「天下の三大名棚」とうたわれる違い棚を眺める。
三宝院を後にする。
時間のない中で、醍醐寺の3エリアのうち1つでも見られて良かった。
醍醐寺
明日はまた醍醐寺から旅を再開しよう。
といっても、実質的に再開地点は醍醐駅で、また駅から歩くことになりそうだが。
お寺の鐘の音を聞きながら、駅まで戻る。
六地蔵から奈良線経由で、京都駅まで戻る方が近いのかもしれないが、
逆に山科駅まで行ってJRに乗り換えた方が、列車本数も車両数も多そうだ。
午後5時18分発の太秦天神川行きに乗る。
山科から5時37分発、新快速・播州赤穂行きに乗り換え。
こっちのルートで正解だったっぽい。地下鉄で座れたし。
特急サンダーバードの通過も見られたし。
明日、醍醐駅へ向かうときもこのルートを使おう。
京都
5時42分、京都駅着。
近くの食べ物屋やゲーセンをチェックして、6時20分、ホテルに戻る。
疲れたので、野球中継を見ながらしばらく休んでいたが、
重い腰を上げて、晩ごはんを食べに出た。
京都タワーが赤い。
リクエストがあって、
午後7時半から、30分だけ赤くしたらしい。
駅の大階段がライトアップされていた。
「ききょう」の文字に、うっすらと花の形も見える。
大階段に映し出される人々のシルエットと、
大階段を歩く本物の人々が交ざり合う。
エスカレーターを上って、11階のレストラン街へ向かおう。
屋根がないので、傘をさしてエスカレーターに乗る。不思議な感じ。
レストラン街には多くの店がある。お客さんもかなりいる。
混み具合や、店の中の様子などを見比べて、迷った末にトンカツ。
旅先だとトンカツを食べたくなる。
うまい。
一気に食べる。
駅ナカのコンビニで、お茶とシュークリーム、あと明日の朝用のパンを買って、
ホテルに戻った。
現在のゲーム路銀
¥810
今回のルート
京都観光Navi(京都市観光協会)
京都府観光連盟
JRおでかけネット(JR西日本)
京都市交通局
京阪電気鉄道
近畿日本鉄道
JR東海
次回、「日本縦断ゲーセン紀行 240.京都編(6)」では、
スケールの大きな醍醐寺と、小野小町ゆかりの隨心院へ。
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