ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

245.似ているようでちょっと違う東西本願寺
~京都編(11)~


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥450


2025年2月10日。
前の2晩、深夜に喉が渇いて目が覚めたので、暖房を切って寝たが、今朝も7時に目が覚めてトイレへ。
フロントで加湿器を借りていれば良かった。

冬場、自宅では布団や毛布を4枚くらい重ねて、さらに暖房をかけて寝ている。それに比べるとホテルの布団は薄くて、雪が降るような時期に暖房なしで寝ると、ちょっと寒い。
(これはこのホテルだけじゃなくて、次に泊まるホテルでも似た感じだったので、いくら冬の京都が寒いといっても、ここ数日の寒さはイレギュラーだったのかもしれない)

まあそもそも4時まで起きてたのが良くない。

8時半起床。コンビニで前日買っておいたチョコクロワッサンを食べる。
ホテルをチェックアウトして、荷物を預かってもらう。
目的地からの近さで、このホテルを選んでいたので、旅が計画通りに進んでいて、その点ではうまくいっている。

ただ今回もまた、荷物預かり用QRコードがフロントで読み取れないというハプニングあり。
昨日のうどん屋でも同じことがあった。どうもQRコードに嫌われている。

10時30分にホテルを出発。七条通に出て、今日最初の目的地を目指す。

七条堀川(京都)('25.2.10)


交差点を曲がって堀川通へ。


10時44分、堀川通を挟んで西本願寺の向かいにある、総門(重要文化財)に到着。江戸時代後期に造られたが、堀川通の拡張などで過去3回移築されている。


横断歩道を渡って、御影堂門へ。1645年(正保2年)造。重要文化財。
門の向こうに見える「目隠塀」も、江戸時代後期に造られたとされる重要文化財。


門前にある灯篭が大きい。


御影堂門から西本願寺(正式名称は、龍谷山 本願寺)に入る。
(神道を除けば)日本で最も信者数の多い宗教法人、浄土真宗本願寺派の本山である。


親鸞聖人をまつる、国宝・御影堂(ごえいどう)の巨大さに圧倒される。

1272年(文永9年)に建立された親鸞聖人の墓所(大谷廟堂)が、本願寺の起源とされる。
以降長らく山科にあった本願寺だが、戦国時代から安土桃山時代にかけて、歴史の波の中で、大坂石山、和歌山の鷺ノ森、和泉地方の貝塚、大坂天満と、場所を転々とする。
1591年(天正19年)、豊臣秀吉から土地の寄進を受け、天満から現在地に移転した。

御影堂と、隣の阿弥陀堂には、後ほどゆっくり参拝することにして、まずは西本願寺のさまざまな見どころを見て回ろう。


立ち入れないエリアにあるけど、鐘楼の装飾がきらびやか。1618年(元和4年)造。


その奥に、国宝・飛雲閣の2階・3階がちょっと見えた。
2階の外襖に描かれた人物も見える。

南側の龍虎殿という建物から、渡り廊下を通って御影堂、阿弥陀堂へ進むのが、メインの参拝ルート。
しかし龍虎殿のさらに南、塀沿いの一見通れなさそうな道を行くと、そこにも大きな見どころがある。昨日マップを見て、西本願寺のこっち側に行けることを初めて知った。


通常非公開、書院の「虎の間」の玄関前を通って、


「浪の間」の玄関前。書院も通常非公開だが国宝で、外観を見るだけでも価値がある。
(書院の中では対面所、白書院、黒書院、北能舞台などが国宝。玄関、浪の間、虎の間、南能舞台などが重文)
そしてこの玄関の向かいにあるのが……、


国宝の唐門。
さっきの鐘楼とともに、西本願寺のほかの建物とは雰囲気が異なる、黒漆ベースに極彩色が施された派手な装飾。
日光東照宮の陽明門と同じように、「日暮らし門」と称されているらしい。

側面の透かし彫りは、古代中国の許由という人物の伝説を描いたもの。(中国古代の帝王である堯(ぎょう)が、許由に帝位を譲ろうとしたが、許由はそれを断り、汚れた話を聞いてしまった耳を川の清水で洗った)

門の外側にも透かし彫りがあり、こちらには張良と黄石公の伝説が描かれているらしい。
(秦の始皇帝の暗殺に失敗して身を隠していた張良が、黄石公の無理難題に応えたところ、その昔に周の太公望が書いた兵法書『六韜』(りくとう)を授かった。張良はやがて劉邦の軍師となって、漢の建国に貢献した)


2018年から2021年まで修復工事が行なわれたので、桃山時代、建築された当時の鮮やかな色が再現されている。
豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)、あるいは伏見城から移築されたという伝説があるが、この門が建てられたときの記録は残っていない。


書院の大玄関。公式行事などの際、書院に来客を迎えるときに使われた。
この大玄関に面して、武家屋敷風の大玄関門がある。

西本願寺


唐門から東へ戻ってきた。あらためて、親鸞聖人をまつる御影堂(ごえいどう)を眺める。
西本願寺には何度か来たけど、何度見ても大きい。
青空に映える。

東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル。
江戸時代初期の1636年(寛永13年)に建てられた、この規模のお堂が、現代まで残っていて、ずっと御影堂として使われている。
国宝に指定されている。


御影堂の前に生える、樹齢約400年の大イチョウ。今の季節は葉っぱがない。


手水舎(ここでは「ちょうずや」と読む)も重要文化財。1810年(文化7年)造。


その向こうに、阿弥陀堂。本願寺の本堂である。
東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル。御影堂よりひと回り小さいけど、こちらも大きい。
1760年(宝暦10年)再建。国宝。


阿弥陀堂門は重要文化財。1802年(享和2年)。唐破風をそなえた檜皮葺(ひわだぶき)の門で、隣の御影堂門とは全く異なるつくり。


唐門のような彩色はないが、黒と金色で重厚かつきらびやか。
こちらの彫刻も見事。


1678年(延宝6年)に造られた経蔵(重要文化財)の扉が開いていた。行列ができている。
普段は非公開だが、今の時間は特別に公開されているようだ。転輪蔵(回転式書架)を考案したとされる、中国・南北朝時代(6世紀頃)の人物・傅大士(ふだいし)と、二童子の像が見える。
遠くからでは見えなかったが、その奥に転輪蔵があり、大蔵経(一切経とも。仏教の聖典を総集したもの)が納められているらしい。

この大蔵経は、徳川家のブレーンとして知られる天海が、日本で大蔵経を印刷・出版することを目指し、江戸の寛永寺で1635年(寛永12年)から、12年もかけて完成させたもの。天海は全巻が完成する前の1643年(寛永20年)に没したが、江戸幕府の支援を受けて事業は続けられた。西本願寺は完成してすぐの1648年(慶安元年)にこれを購入した。

北東角には、新選組にゆかりのある太鼓櫓が建つが、これは境内の外から見た方が見やすいので、後ほどまたじっくり見ることにしよう。


ひととおり建物の壮大さを堪能し、あらためて参拝に向かう。
阿弥陀堂の前にも巨木が1本立つ。


入口となる龍虎殿で、親鸞聖人の御絵伝とその解説を見た後、渡り廊下を通って、まず御影堂の中へ。


御影堂の外の回廊。何ヶ所か補修されているのだが、魚やひょうたんの形の木(埋木・うめき)で補修されているのがユーモラス。


御影堂の縁側の角から、国宝の飛雲閣が見えた。
2階の外襖に描かれた人物像も見える。
1階の屋根に、おとといの雪がまだ残っている様子。


(※写真は御影堂の外観)
御影堂は、本堂にあたる阿弥陀堂より大きい。
人々が集まる行事や法話が、この御影堂で行なわれることが多いから。ホールの役割も兼ねているのだ。
(さっき飛雲閣を見た場所は、この写真の手前左側の角)

御影堂の中へ。巨大な灯篭がいくつも天井からさがる。畳敷きだが椅子が並んでいる。
「見真」と記された扁額の下、親鸞聖人像に参拝。
左右に九字名号(南無不可思議光如来)と十字名号(帰命尽十方無碍光如来)。
欄間の透かし彫り、左右の障壁画。空間の広さも相まって壮観。


渡り廊下を通って、阿弥陀堂へ。
廊下から門の方を眺める。あらためて境内の広さを感じる。


(※写真は阿弥陀堂の外観)
阿弥陀堂も、御影堂と似た入母屋造り。
御影堂よりひと回り小さいとはいえ、それでも相当な大きさ。

阿弥陀様の立像に参拝。
左右に法然上人、聖徳太子の画像。こちらの内陣もきらびやか。

江戸時代から、この規模の建物が残っているのが凄い。
何代にもわたって大事にされ、メンテナンスもたびたび行なわれているのだろう。
(最近では、阿弥陀堂で2017年から2022年にかけて、唐門も2018年から2021年にかけて、飛雲閣も2017年から2020年まで、修復工事が行なわれていたそうだ)

西本願寺


御影堂の天水受け(雨水を受ける桶)を支える、「天の邪鬼」の像。
西本願寺の公式サイトやパンフで、やけに推されている。

お茶所(案内所)で梵鐘や、飛雲閣のジオラマを見る。
正午を過ぎた。少し早いけどお昼にしよう。


阿弥陀堂の隣、伝道本部にある「喫茶 紫雲」で、ハンバーグセットを食べる。
メニューの中に、肉料理が普通にあるあたり、浄土真宗らしい。(ほかに牛丼もある)
普通においしいハンバーグ。

紫雲の隣の売店「開明社」には、本格的な仏具と、京都みやげが並んでいる。
原則として浄土真宗のお寺には、お守り、お札、御朱印がない。
ざっくり言うと、阿弥陀如来の本願(他力本願)のおかげで、人々が来世で極楽に行けるのは保証されており、逆に人々が自らお守りやお札を受けたからといって、それで運気が上がるわけではない、というのが浄土真宗の考えらしい。
だから浄土真宗では祈祷も行なわれない。
お寺にお参りするのは、阿弥陀様に感謝するため、また悩み事があったときに、自分が阿弥陀様とつながっていることを再確認するためらしい。

ただ、記念品はある。西本願寺の寺紋「下り藤」(さがりふじ)が、黒地に金色で描かれたキーホルダーを購入。
裏は全面が金色で、飛雲閣が浮き彫りになっている。懐かしい感じのキーホルダー。
あと、リラックマ飛雲閣キーホルダーも買った。

安穏殿ブックセンターに、『ろくでなしBLUES』『ROOKIES』『べしゃり暮らし』などで知られる、森田まさのりさんが描いた絵本があった。


阿弥陀堂門から外へ出て、道路から太鼓楼(たいころう)を眺める。1789年(寛政元年)に建てられた。重要文化財。
新選組ゆかりの建物でもある。
1865年(慶応元年)に新選組が、手狭になった壬生から移り、この太鼓楼と、その後ろ(現在の安穏殿ブックセンターの位置)に当時あった北集会所(きたしゅうえしょ)を、新たな屯所とした。
新選組の隊士たちが、このあたりの道を行き来して、この建物に出入りしていたと思うと感慨深い。
なお、北集会所の建物は、のちに姫路市の亀山本徳寺に移築された。

西本願寺はもともと長州藩とのかかわりが深かったため、尊王攘夷派の長州藩士と西本願寺とのつながりを断つ狙いもあったようだ。
新選組は大砲を撃ったり、実弾射撃を行なったりして、僧侶や信徒をおびえさせたという。

明治維新後、元隊士の島田魁が、西本願寺の守衛となり、亡くなるまで務めたそうだ。戊辰戦争で亡くなった隊士たちをしのんで、念仏を日夜唱えていたという。

西本願寺


御影堂門の前から堀川通を渡り、総門(重要文化財)をくぐって、正面通に入る。


仏具屋さんの並ぶ通りに、異彩を放つ無国籍な建物が目立つ。


伊東忠太が設計した、本願寺伝道院。(重要文化財)
1895年(明治28年)、真宗信徒生命保険株式会社(のちの東京生命)の社屋として建てられた。
伊東忠太といえば、平安神宮、橿原神宮、弥彦神社、岐阜公園三重塔、大雄山最乗寺、あと平賀源内の墓所など、和のモチーフの建造物が多いイメージがあったのだが、浄土真宗の建物となると、こことか、東京の築地本願寺のように、インドなど世界各地の様式を取り入れた、独特なものが多い。


異形の動物の彫刻も、エキゾチックな雰囲気を醸し出す。
またヨーロッパの大きな教会にみられる、ガーゴイルをほうふつとさせる。


裏手から見ても、かなり複雑な形をしている。

(続く)

京都観光Navi(京都市観光協会) 京都府観光連盟
JRおでかけネット(JR西日本) 京都市交通局

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(続く)


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